横田基地の名前の由来(1999年頃記)
横田基地の米軍関係の資料によると横田という名前は基地の東(現在武蔵村山市)にある地名から取られたとある。当時福生(ふっさ)という村の名前が米国人にとって言いにくかったことと、聞く側の日本人も福生ではよく聞き取りにくかったという理由から横田になったという。
横田基地は米軍が進駐して来るまでは、立川飛行場の付属施設で、正式には帝国陸軍多摩飛行場と名付けられていた。航空機の飛行試験施設や整備学校などがあった。ただ、当時の町民(福生は1943年町に1970年市になった)には福生飛行場という言い方が一般的だったと言われている。
なぜ横田という名前が採用されたかに関してはそれ以上の詳しい情報はない。
横田という名前は現在も武蔵村山市に残っている。調べてみるとその歴史も多摩飛行場以前にさかのぼる。それもかなり重要な意味をもっていたと思われる。
以下は武蔵村山市教育委員会1995による村山・山口貯水池建設工事写真集からの引用である。
村山貯水池建設とその関連施設の設置により給水能力は大きく増加したが、東京市の人口増加はさらなる給水能力の増加を必要とした。そのため、新たに山口貯水池の建設と和田堀浄水池の増設をすることにより第1拡張事業の完璧を図ることとなった。
これが第2期工事と呼ばれる工事で、昭和2年(1927)11月に測量及び地質調査に着手し、昭和4年(1929)6月に地鎮祭が行われた。
これに先だち、村山村地内では昭和3年(1928)4月から11月までの間に、羽村・村山線上に砂利運搬軽便軌道(羽付から村山村横田まで)の敷設工事が行われ、さらに昭和3年10月から翌年にかけて村山付横田から山口貯水池堰堤南端まで材料運搬軽便軌道の敷設工事が行われた。現在、武蔵付山市内に残る野山北公園自転車道のトンネル群はこの時に作られたものである。
山口貯水池は昭和4年4月から堰堤敷の掘鑿(くっさく)を開始し、昭和5(1930)年3月に盛土作業に着手した。この盛土工事は3交代制昼夜作業の突貰工事で行われた。
昭和7年(1932)10月には通水を開始し、翌年には貯水池としての機能を発揮できるまでに完成した。
現在の横田トンネル(1999年)
現在は遊歩道となっている路線の跡
今も残る横田車庫の倉庫(1999年)
同資料によるとその昔、多摩川の砂利を運ぶ目的で軽便鉄道が羽村から、現在の横田基地の北側を通り、武蔵村山市の横田を経て、村山貯水池まで走っていた。村山の横田は列車の通過点だけでなく、車庫もあり、重要な役割を果たしていた。
話は変わるが、1998年11月、韓国のオーサン基地に行く機会があり、オーサン基地の歴史を翻訳した。そこにはこう書かれていた。
大韓民国オーサン基地の歴史
1950年北朝鮮共産主義者による大韓民国侵略以前、今はオーサン基地と呼ばれているこの地域には山の麓に4つの村と現在滑走路になっている場所に広大な水田があった。初めはK-55と指定されたが、1956年9月にオーサン空軍基地と改名された。その名称はその地域にあった村の名前から付けられたのではなく、初代基地司令官が米軍の地図上で、その地域で載っていた唯一の地名がオーサンであったことと、その発音が容易であったからという理由でオーサンと名付けたものである。オーサンの意味は「からすの丘」という意味である。
そこで、横田基地も同様な理由があったのではないかと考えられる。1930年頃の地図を見てみると確かに日本の地図であっても、たくさんの地名が載っているわけではない。まして進駐してきた米軍の地図には地名までは載っていなかったのではないかと推測される。
1930年当時の地図
1952年当時の地図
米軍が進駐してきてからおよそ1年後に横田基地という名称が採用されたが、1945年当時、村山の横田はより大きな意味を持っていたのではないだろうか。
以下はオーサンに行ったときの写真
オーサン基地のゲートゲートの外の商店街
第18戦闘機航空団司令部にあった地図U-2航空機
板門店で撮った写真
追記(2001年10月)基地新聞に載っていた一つの説とその内容について
横田という名称が採用されたことに関する記録はほとんどないのだが、基地新聞1961年に次の記録を見つけた。著者は聞いた話として書いている。
アフターバーナー1961年10月20日号その頃を語るCES(施設中隊)澤田良助
「終戦直後、米軍が飛行機でこの飛行場の上空から視察した時、同乗の通訳に地図を示してこの地名は何と申すかと尋ねた時、たまたまその将校がポイントした鉛筆の先が横田村を指していたので、通訳氏は正確を期してー横田でありますーと答えた。広いアメリカの観念を以ってすればよもや、この狭い地域が郡、町、村、字などと区分されていようとは夢にも思わない将校さんは、この付近一帯の地名を尋ねたつもりだったのが、日本的通訳氏の正確さによって横田と伝えられてしまい、したがってその視察の結果、この基地は横田と命名され、その様に米国防省の台帳に記入された。」
この説は話としては面白いが、どこまで真実か定かでない。
解説(2001年10月)
横田基地という名称は米軍が進駐してきてから、一年も経ってから付けられたのであるが、この説は一年も名前がつけられなかった理由を説明していない。初めから国防省の台帳に記入されたのなら、初めから横田という名前で呼ばれていたはずだと推測される。
さて、ここに書かれている内容には少なくとも次の不明な点があり、疑問として残る。
米軍とはどの部隊を指しているか。
示された地図はどんなものであったのか。
通訳氏はなぜ横田と答えることができたのか。
米軍とはどの部隊を指しているか:
ここに出てくる米軍とは厚木に進駐した本隊のことと考えられるが、あいまいである。
仮に多摩飛行場に進駐してきた部隊であるとすると、多摩飛行場施設のすべての統制を終え、180機以上あった飛行機の処理、滑走路の整理などを終えてからということになるだろう。多摩飛行場から飛行機でこの地域の視察を行ったとすれば、それまでにかなりの時間の経過が必要になる。その場合終戦直後という表現は適切でなくなるだろう。
それ故、「終戦直後、米軍が飛行機で視察を行い」という記述が正しいとすると、多摩飛行場だけの視察でなく、日本軍の飛行場の全般的な視察であったと考えられる。これはあり得ただろう。
示された地図はどんなものであったのか。
将校が「横田村を指して」とあるが、その地図に横田と判るほどの特徴が書いてあったかのだろうか。
その地図は日本のものだったのか、または米軍が作ったものであったのか。
米軍が作った地図であれば、通訳に聞く必要はないので、その地図は日本語で書かれていたと考えられる。
通訳氏はなぜ横田と答えることができたのか。
通訳氏はどうしてそこが横田と判ったのか・・・判ったとすれば、地図に名前が載っていたからと推測される。
もしこの地図に地名が載っていなかったら、通訳氏はここの地理に専門的に詳しかったということになる。
この地域の出身でもない限り、地名などわからないだろう。地図の内容についても将校と通訳氏の話しにしても正確さに欠ける。
いつ、誰が、どこで、何を、どのように、なぜといった基本的な内容がすべて漠然としていて、真実が見えてこない。
以上、当時通訳をする人が非常に少なかったことも考え合わせると、この通訳氏と米軍の将校との会話は非常にあいまいで、作り話の領域を出ない。しかし、戦後20年も後の記録なので、伝えられるうちに歪曲してしまった可能性も十分に考えられる。
横田という名称が戦後すぐに国防総省の書類に載り、基地の名前として採用されたというこの記録が正しいと仮定してみると、多摩飛行場は米軍の進駐の後、すぐに横田基地と呼ばれるようになったはずである。飛行場は戦後すぐに、横田基地と呼ばれるようになった。しかし、正式な基地の名称として採用されたのは1年後だったと考えればこの説も真実である可能性が出てくる。
そこでこの国防省の記録を発見できればこの説の信憑性を立証できる可能性がある。また、戦後すぐに行なわれた航空機による日本軍飛行場の視察に関する記録もどこかにあると思われる。・・・今後の研究課題である。
2003年10月、上記の記録を書いてから2年、ついにその真実が明らかになった。
澤田良助氏が残した上記の人から聞いたとされる記録はほぼ実際の出来事を伝えていたと判断できることがわかった。
大きな違いは「終戦直後」ではなく、「終戦直前」であっことだ。また日本的通訳氏とは米軍が連れていた(日系2世のような)米軍の通訳だったことである。この違いを訂正すると上記の記録はすべてつじつまが合う。
以下は西の風新聞10月3日号に載った川島さんの記事の一部の引用である。
福生市郷土資料室が9月27日に開いた夏の講座「戦時下の福生~福生と多摩地域の軍事施設をめぐって」の中で、講師の斎藤勉さんが米軍は終戦前から「YOKOTA」の名を使っていたことを、国立国会図書館憲政資料室に所蔵されているマイクロフィルムの中にある米国戦略爆撃調査団報告書とその基礎資料から明らかにした。
調査団報告書の資料から発見されたのは空爆などのために用意される「目標情報票」に類すると思われる書類。
「YOKOTA」飛行場についての記載事項を見ると、同飛行場の位置として「YOKOTA」の1.5マイル南西、「HAKONEGASAKI]の1.5マイル南南東と書かれている。このことから位置関係を考察すると「YOKOTA」の名は村山村の字名である「横田」から来たことは間違いない。
米軍は、多摩飛行場の名を把握していなかったため、仮に「YOKOTA」の名を付け、補欠として
「MURAYAMA」「SHOWA・N」の名も挙げている。米軍が入手していたであろう戦前の日本の地図には「横田」の字名が大きな活字で書かれて目立っていることから、仮の名として借用したものと思われる。
これらの情報は、1944年秋からマリアナ、サイパンなどに配備された写真偵察機F-13(B-29爆撃機を改造したもの)により高高度から撮影された偵察写真の分析などから作成された。
以下はその写真の一部である。ページの上の部分の拡大したものが右側。
上の部分
下の部分
講師の斎藤勉氏が提供した資料には以下のことが含まれている。
米軍は多摩をどのように把握したか
・1943年(昭和18年)から開戦前に収集した資料・地図から軍需工場、飛行場、交通運輸上重要な地点をチェックして分析、ターゲットナンバーをつける。(例)中島飛行機武蔵製作所・・・・90:17-357
・昭和19年11月1日から空中写真を撮影・・・・4種類7つの写真機を搭載したF13で撮影(日本全土)
・空襲前には「目標情報票」、終了後には「作戦任務報告書」などの書類を作成
米軍資料とは
・米軍資料とは正確には米国戦略爆撃調査団報告書(USSBS)とその基礎資料のこと
・戦略爆撃調査団は民間人と軍人からなる日本への戦略爆撃の調査を目的とする団体
・所在:マイクロフィルムで国立国会図書館憲政資料室に所蔵。20歳以上なら誰でも閲覧可能。本物は米国国立公文書館に所蔵
2008年末~2009年、横田基地(第374空輸航空団)史料部長のトライバー博士より様々な史料をいただいた。その中に1945年9月に米軍が進駐してきた時の次の記録も含まれていた。この中で注目できるのは米軍が進駐してきた時にはすでに旧日本軍の表現を使わずにYokotaAir Baseという表現を使っていたことである。
この文書には1945年9月12日付けで任命された近隣の基地の司令官の名前(中央部分)がかかれている。
厚木 Air Base Colonel K. Warburten (sio+ Ernest K. Warburton)
調布 Air Base Commanding Officer, 71st Tactical Reconnaissance Group
昭和 Air Base Colonel Joseph C.A. Denniston
立川 Air Base Brigadier General Paul H. Prentis
横田 Air Base Colonel William J. Bell (ウィリアムJ.ベル大佐横田基地初代基地司令官)
このことは米軍が初めから旧日本軍の基地をYokota Air Base (横田) と呼び、時と共に日本でも横田基地と呼ぶようになったことを示すものである。(2010年1月記)